死ぬ前に「後悔すること」は、生きている時に「後悔すること」とは違うのだから[俺思想]
(2013-09-26 06:02:53) by shinoda


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Facebook でフレンドさんがシェアしていた"ナースが聞いた「死ぬ前に語られる後悔」トップ5"っていう記事があって、詳細は端折るけど、

1.「自分自身に忠実に生きれば良かった」
2.「あんなに一生懸命働かなくても良かった」
3.「もっと自分の気持ちを表す勇気を持てば良かった」
4.「友人関係を続けていれば良かった」
5.「自分をもっと幸せにしてあげればよかった」

がそうだよ・・・という話。

こう言うのを読んで、「よし、私もこれからは自分の気持ちに素直に生きていこう!!」と感化されてしまうのはまあ良いんだけど、これで、今までの自分の生き方を否定したり、あるいは他人に向かって「そんなに一生懸命仕事しても仕方ないよ。死ぬ時、仕事してた時間をもっと他の事に使えばよかったなんて後悔する人多いみたいよ。休んじゃえ、休んじゃえ。」みたいに言うのは違うと思うね。

こういうのは、「突然自分が死んじゃうことがわかった」から出て来る「後悔」であって、それを生きている人間に適用するのは間違ってるわ。
「天寿を全うした」人間が同じ「後悔」を口にするとも思えないしね。

いや、この「後悔」の言葉を否定しているわけじゃないよ。

ただ、こういう「不慮の死」を迎えた人達が口にした「後悔」を人生訓のように語り、過去の自分(や、他人)の生き様を悔やむってことが間違いだと言いたいの。

「ずっと生きていく」ことを前提にすれば、「他人が望むことにも応えてあげて」「仕事は一生懸命やって」「世間と無用な軋轢は生まず」・・・という具合に生きていくのが正しいことだし、まったく悪いことじゃないよね。
そこでストレスを感じる人だけが少し生き方を変えればいいわけで、「看護士に看取られて死ぬ人はこんな後悔するんですよ。だから、こんな後悔しないように、自分に正直にぁdcfcfwfxsd・・・」というのは変な話だよね。

「いやいや、人間、いつ死ぬかわからないんだから、こういう『後悔』を先人の言葉として重く受け止めるべきだ」と言いたい人はいるよね?

でも、「いつ死んでも良い」なんて思いながら「社会の中」でマトモに暮らせるか?

正直、そんな刹那な生き方されても困るよ。迷惑です。

なんでこんなことを突然書いたかと言うと、今日、俺より 4歳若い従弟の葬儀に出てきたから。

若くして亡くなった彼について、葬儀に向かう車の中で「あの時、△△な考え方が出来れば苦労することもなかったのに」「○○してなければ病気になることもなかったかもしれないのに」などと彼の「後悔」を代弁するかのようなことを俺の弟と話したんだけど、でも、それは彼が(あ、自殺とかじゃないよ。病死です)若くして突然亡くなったからこそ出て来る言葉で、彼が普通に天寿を全うしていれば、「あの時は苦労したけど、遊びたい気持ちをがまんして働いたけど、心配もかけたけど、ま、今にしてみれば良い思い出だよなあ」と死んでいけたことかもしれない。
したり顔で、「自分に正直に生きればよかったんだよ」なんて誰も言えないよね?

彼が死ぬ時に意識があれば、「ああ、あんなに一生懸命働かなくても良かった」と思ったかもしれない。

でも俺は、「いや、お前は志半ばで倒れたから後悔してるかもしれないけど、ちゃんとゴールしていれば何の問題もなかった。何も間違ってなかったんだよ」と言ってやりたい。(もちろん、どんなゴールシーンになるかはわからないんだけど)

彼は自分が突然死ぬことを考えて生きていたんじゃない。数十年後、天寿を全うする時に、周りのみんなが幸せになってれば良いと思って自分なりに足掻いていたんだと思うからね。

良いよ、それ、正しいよ。正しい人間の生き方だよ。

要は、

「死ぬ時に後悔をしないため」に人間は生きるんじゃないよ。
自分が生き続けていくために、生きていく先にある結果のために思考し、行動するんだ。
それは行程の途中で倒れることがあれば「別の生き方があったのに」と悔やむことになるかもしれないが、生きている内にそんなことを考える必要はないんだよ。

死んでいった人間の「後悔」で自分の生き方に疑問を持つ必要はないよ。
自信を持って、しっかり生きていこうぜ!!

・・・ということが言いたいんですわ。

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